2009/01/24
八重洲の富士屋ホテルでBCG研修会に出席中に携帯電話が鳴った。日赤医療センターのY先生からだった。
今朝、中島やよひ先生が亡くなったという報せだった。
中島先生とは、彼女が研修医で日赤医療センターにやってきたときからずっとおつきあいをしてきた。初めての出会いは、研修医採用試験の作文だった。作文の課題は「私」。彼女の作文の内容はすっかり忘れていて思い出せない。
その後、 私が日赤医療センターを辞めて開業してからもマラソンや「カレー部」でおつきあいは続いた。
2年ほど前に、中島さんから「カレー部」を一時中断しますというアナウンスがあった。手術をうける予定があるのだという。婦人科関係の手術だろうと思ったのであまり深くは聞かなかった。その手術は確かに婦人科関係の命に別状はないものだったのが、術後半年ほどして別の病気が見つかった。
手術後の落ち着いた頃、私のクリニックに見学に来たいというメールが来た。もちろん歓迎だけどどうしたの?と聞いた。
「私、胃ガンになっちゃって手術したんです。」と言う。驚いた。
でも、すっかりよくなって大丈夫です、という。見た目も、以前とそう変わらなかった。
それでも、日赤医療センターの最前線の小児科医として働く自信はなくなっていたのだろう。新生児科医としてはもうフルには働けないと思うので外来の方にシフトしたいと言うのだった。
私のクリニックで小児科外来のノウハウを獲得したいという。
それから、月に2回くらいのペースで土曜日の外来にやってきた。私の診療を横で見ていた。クリニックが軌道に乗っているとはいえ、私の診療スタイルが小児科の外来診療のモデルであるわけではない。それでも、中島さんは何かを吸収しようと通ってきた。
昨年の秋、見学に来れなくなったというメールだ来た。病院の外来も辞めるという。
病気のことは何も言わなかったが、どういうことなのかは言われなくてもわかった。
クリニックのインフルエンザワクチン接種を手伝ってもらうことになっていたのだが、一回目をなんとかこなしてくれた後はキャンセルになった。
一月ほど音信がなかったが、昨年暮れの土曜日に見学に行きたいというメールが来た。もちろん大歓迎だよと返事をした。12月27日の土曜にやってきた。やせが進行していた。それでも、診療後は新しいマンションに引っ越ししたのだという話をして元気にお別れした。
その2日後に最後の入院をしたらしい。相当無理をして来たのではないかと今になって思う。
年が明けてどんどん悪くなったという。しばらくして緩和ケアユニットに移ったらしい。
そこまで悪くなっているとは知らなかった。12月も、別れを言いに来たとは今でも思えない。
BCG研修会を中座して病院でお別れをしてきた。
12月に会ったときとは別人のように痩せていた。
中島さん さよなら。
日赤医療センターでレジデントとして片岡先生、中島先生にお世話になりました。実はいま、川崎の看護学校で講義を受け持たせて頂いておりまして、先生のクリニックがお近くなのを知り、ホームページを捜して今日はじめてアクセスしてみました。中島先生のこと、知らなかったのでとてもショックです。ご冥福をお祈りします。
片岡先生
中島先生とはスペインの学会でご一緒したことがありました。女子医大の仁志田先生や埼玉医大の故・小川先生などとグループになって食事をしたりした楽しい思い出があります。
中島先生は明るくて気さくな素晴らしい先生で、そのときの旅行のとても素敵な思い出です。
中島先生のこと、とても悲しくまた残念に思います。
ご冥福をお祈りいたします。
かねこクリニック
金子光延
検索でたどり着きました。駄文長文で失礼します。
5か月の子を持つ母親です。
中島先生は、息子が黄疸になり体重が2500を切ってしまったときに、大変お世話になりました。以後、毎月の健診を中島先生に見ていただいておりました。
息子は黄疸のとき、搾乳したおっぱいを哺乳瓶では飲むのですが、ミルクを全く受け付けず、噴水のようにおう吐する息子をみて、中島先生は、「ミルクを「飲めない」のか「飲まない」のかまず調べましょう!黄疸よりもそちらのほうが心配です!かわいそうだけど、まずは絶食、リセットしてから、少しずつどれだけ飲めるかをみてきましょう、点滴をつけているから栄養はちゃんと体にいくから大丈夫ですよ~!」と、当時大パニックに陥っている私にやさしくそしてわかりやすくいろいろと説明してくださいました。
結果、息子は単純にミルクを飲まなかっただけで、2500gで退院。
中島先生は微笑みながら、「太郎君は奥手なだけなのね」との診断を。(帝王切開で1か月早く生まれたのでまだ幼かったためにミルクを受け付けなかっただけのようです。)
息子の性格をよく熟知してくださった先生、その後の健診で体重の伸びが悪く平均の外でも、「太郎くんペースでがんばってるから大丈夫よ!発達も問題ないです!」といつも励ましてくださいました。
そして、今日の午後も、息子に「中島先生に会いにいこうね!」といって、日赤に行ったのですが、違う先生がいらして、そこで訃報を知りました。
あまりのショックで思わず涙を流したら息子もびっくりして泣いてしまいました。
あんなに素晴らしい先生に私は今まで出会ったことがありません。
新米の母親の些細な心配ごとにも真摯に対応してくださり、先生は私にとって、とても心強い存在でした。
周りの赤子と比べて随分と小ぶりでも中島先生とお話すると息子のペースでいいんだ、と思えるようになりました。
母乳に固執してた私に、「今ならミルクも飲みますよ!」と3ヶ月のころおっしゃってくれたときは、肩の力が抜けて、ミルクを少し足すこともできました。(他の先生や保健所の方からいわれても、ミルクを足せなかったと思います。)
かたおか先生のブログの記事を読ませていただき、中島先生の仕事に対する情熱がとても伝わってきました。
こちらのコメントに書く内容ではないかもしれませんが、それだけ私と息子にとって、中島先生はとっても大きな温かい存在でしたことをお伝えしたく書き記したしだいです。
中島先生のご冥福をお祈りいたします。
不適切であれば、どうぞ削除してくださいませ。
失礼します。
坂元 香里
コメントありがとうございました。
今夜お通夜に行ってきました。
ブログネタにするのはどうかと迷いましたが、書いておいてよかったと思いました。
初めまして。日本画家で、石村雅幸と申します。
小児科女医の中島やよひさん、亡くなられたのでしょうか?
もし昭和39年か40年のお生まれで、以前、目黒にお住まいで、帰国子女の中島さんでしたら、私の小・中学校の同級生です。
同窓生は、女医さんになられたまでは風の噂で知っていますが、亡くなられたとなると、とても悲しいニュースです。
同じく、同級生の宮内和之君(ミュージシャン、ICE)が、一昨年12月に、耳下腺癌で亡くなられたばかりです。
片岡先生、はじめまして。松村と申します。
突然のコメント失礼いたします。
中島先生、まだ日赤で頑張っていらっしゃるのかな?と思ってたどりついたのが先生のブログでした。
中島先生は、1995年10月に私の次女「雅恵」を診ていただいた先生です。左心低形成症候群でわずか20日で天国へ旅立ちました。亡くなった時も悔しそうに大粒の涙を流しておられました。
娘が亡くなって17年がたとうとしている今でも、先生は熱心に精一杯治療にあたってくださって雅恵は幸せだったな・・と思えます。
きっと、最前線でご活躍されていると思っていたのにとてもショックです。
中島やよひ先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
本当にありがとうございました。
片岡先生、時が過ぎてしまいましたが、このブログにたどり着けて
よかったです。ありがとうございました。
松村さん はじめまして
中島やよひ先生にゆかりがあった方にとって拙ブログが墓標のような役目を果たしているのだなと思いました。
お読みいただきありがとうございました。
あらてめて中島先生の患者さんに向かう姿勢を思い出しました。